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西尾城ゾーン
歴代城主と西尾城の変遷、城の構造、藩士の暮らしぶりについて、城用語などからやさしく解説します。
鉄黒塗切付札紺糸手引威二枚胴具足
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永禄7年(1564)
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鰐口とは寺社の軒先にあり、参拝のときにその前に吊るされた綱で打ち鳴らすものです。展示資料は全体の形のよく整った鰐口で、西尾城主・酒井正親(政家)によって城内にある御剱八幡宮に奉納されました。「三川國吉良庄西尾御剱鰐口酒井雅楽助政家寄進」と彫られており、この「西尾」は金石文における最古級の使用例です。室町時代末期には「西尾」という名が使われていたことを示しています。
市指定文化財
鯱瓦
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右側面の銘文から瓦町に住んでいた原田八左衛門による作品であることが分かります。西尾市には現在も「瓦町」という町名が残っており、原田氏のような瓦師が瓦を焼いていたことが地名の由来とされています。しかし、18世紀中ごろになると製品の運搬や粘土採掘の利便性を求め、瓦師たちは城下町の外へと拠点を移しました。
家紋瓦
江戸時代
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展示資料は軒丸瓦という軒先に葺かれた丸瓦で、瓦当と呼ばれる先端の円形部には文様が施されました。瓦当には三巴紋を施すことが多いのですが、城郭の場合は城主の家紋をあしらった家紋瓦を用いることがあり、西尾城でも本多家や増山家など江戸前期の城主の家紋瓦が確認されています。
家紋瓦はその城主の在城期間のうちに瓦の葺き替えを行ったときに使用されたと考えられ、改修が行われた時期を知る手がかりにもなります。
三河国西尾城図(万延二辛酉歳三月公義御伺下絵図)
万延2年(1861)
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大給松平氏の藩主時代、追羽門外の石垣と天王門の修復を願い出た際に描かれた図面です。城郭の石垣や土塁は自然災害によって度々崩れることがありました。それを修理するには、藩は修理したい箇所を書いた絵図を作成して老中に提出し、老中の許可を得てから工事を始めなければいけませんでした。絵図を作成する際に下図や控図なども作成するので、同じ絵図が複数現存している場合もあります。
西尾城城下町ジオラマ
元治元年(1864)
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西尾城は廃城以前の写真が存在せず、城絵図でもさまざまな姿が描かれていることから、復元案もさまざまなものがあります。
当ジオラマは西尾の城下町の雰囲気や規模を伝えることを目的に、総構え内の町並みを再現しました。
参考資料
「三州幡豆郡吉良荘西尾城之図」個人蔵(西尾市教育委員会寄託)
城郭内:「三河国西尾城絵図」国立公文書館・内閣文庫蔵
天守、二之丸丑寅櫓:三浦正幸案(広島大学名誉教授)
二之丸御殿:「二之丸居所之図」西尾市教育委員会蔵
大黒天図
江戸時代
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![](/archives/001/202110/mode3_w1200-904a52e138f1e3058cf8fce24c94595be1764e1d14304a2819e86bc696346859.jpg)
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藩主・松平乗全は幅広い趣味を持っていましたが、特に絵画は幕府の御用絵師である狩野派に学び、技術的に相当習熟していました。展示資料も筆線の強弱や抑揚を強調する狩野派風の筆法で描かれています。肖像画や花鳥図、仏画など幅広い題材のものを描いていましたが、中でも大黒天図は多く残っています。家臣が大黒天図を願ったところ、乗全が快く描いてくれたという逸話もあり、乗全の大黒天図の人気や乗全の人柄を伺うことができます。
西尾城東之丸 出土品
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西尾城の東之丸は鎌倉・室町時代を通して次第に城の形を整え、拡張された広大な郭で、上級武士が暮らす侍屋敷や米倉、畑がありました。西尾城跡は昭和59年(1984)以来、9回にわたる発掘調査が実施されています。東之丸からは徳川家康による増改築が行われた時期のものと思われ、大溝や溝、建物の柱穴が見つかっています。江戸時代のものでは、長蔵跡・建物の根石・井戸・ゴミ穴とともに、多くの近世陶磁器が出土しました。
また、弥生時代中頃(約2000年前)の竪穴住居の遺構も検出されており、古くからこの地に人が住んでいたことが分かります。
西尾の歴史ゾーン
市内の特徴的な資料、通史 年表、映像などを用いて、原始から現代に至る西尾市の歴史を紹介します。
八王子貝塚出土 縄文土器
縄文時代前期、後期
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八王子貝塚は上町に位置する縄文時代後期を代表する貝塚です。今でこそ海岸から7km程離れていますが、縄文時代には海が入りこんでいました。本貝塚からは後期中葉の土器がまとまって出土しており、「八王子式土器」として型式名を設定され、東海地方の縄文時代後期中葉の標識遺跡となっています。
枯木宮貝塚出土 石刀
縄文時代晩期
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寺津町、巨海町の台地上東端に位置する貝塚です。縄文時代晩期前葉の土器が多く出土し、「寺津式土器」の標識遺跡となっています。
石刀とは、縄文時代後期から晩期にみられる石器の種類の一つです。
実用品ではなく、儀式に使われた道具ではないかと考えられています。展示の石刀には、「×」や斜めの線が連続して刻まれているのが確認でき、これは橿原遺跡(奈良県)などで出土のものに共通しています。
小島銅鐸(複製)
弥生時代後期
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![](/archives/001/202306/mode3_w1200-cdc8088f955541e78e6b021d53ab1675b047ec1131c9dc007dae81f8a4af951b.jpg)
明治時代、小島町で井戸を掘るために4.5mほど掘り下げていたところ偶然発見されました。南1.5kmのところには岡島遺跡があります。銅鐸は祭祀などの重要な場面で使用されたもので、西三河地方では出土例が少ない中、ほぼ完全な姿での発見です。縦の文様帯と横の文様帯を交差させた袈裟襷文を施してあり、文様の区切りに突線がめぐらされているのが特徴です。
Image: TNM Image Archives
総高31.1 鐸身22.6 裾長径15.7 裾短径10.2(単位:cm)
重量1544.0g 東京国立博物館蔵
後田遺跡 海獣葡萄鏡(複製)
奈良時代
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明治時代、宅地から畑へ転換する作業中に偶然7枚の古代鏡が見つかりました。そのうちの5枚を宮内庁書陵部が所蔵しています。海獣葡萄鏡は7枚のうち3枚ありました。その特徴は、葡萄唐草文を基本背景に、中央に獣が伏せたような姿の鈕があり、内区に海獣(獅子)が、外区には鳥がいるというものです。中国の唐の時代を代表する青銅鏡の一つで、輸入されたりそれにならって国内で鋳造されたりしました。日本では終末期の古墳から発見されることの多い鏡です。
雲母
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ケイ酸塩鉱物の一種で薄く剥がれるのが特徴です。市内では古くから八ツ面山で採れ、石がキラキラと光り輝くことから「きらら」とも呼ばれ、「吉良」の語源ともなりました。平安初期の医学書『大同類聚方』に「紀羅良薬」の表記があり、薬として重宝されていました。和銅6年(713)、三河から雲母を献上したという記事が『続日本紀』にありますが、当時の租税制度の「調」として納め、中央の律令政治の支配を受けていたことになります。